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創業当時のルート

私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと、豊田の地を選んで、緑区から出てきました。

昭和51年5月、「ルート豊田」の名前で、国道248沿いの貸し店舗で創業しました。

社名のルートは、流通と言う意味からつけました。

オープン早々、当地の同業者から反対の声があがりました。

反対の理由は・・・

①  個人間売買は、今までの中古車屋の仕入れ価格、売り価格を明らかにしてしまい商売がとてもしにくくなる。

②  豊田で自動車屋を営業するなら、〇〇自動車  〇〇モータースのような名前にしてくれ・・・
    でないと、業界秩序が乱れる。                                                          (豊田の自動車屋さんは、自分の姓、または地名のあとに、自動車・・または、モータースとなっていました)

③  自動車屋は地元で営業するもの・・・だから君は名古屋の緑区で開業すべき。

④  自動車屋は広い土地ですべき、貸し店舗で自動車屋をするなんてもってのほか。業界をなめてはいかん!
    (確かに当時の自動車屋はみな広い土地で営業していました。)


  毎日「ルート豊田」へ来て、私の商売をやめさせようとしました。6人ほどの人たちでした。

困った私は、以前から親しかった、自動車新聞の記者に話しました。(今年の1月に亡くなられた、当時の林記者でした)

なんと、このことを、林記者は全国紙、日刊自動車新聞に、見開き2ページにわたって書きました。

あまりに大きな記事に私のほうがびっくりしました。

これによって、地元の同業者は「ルート豊田」へは、直接来なくなりました。

でも、今度は、日刊自動車新聞に対して、不買運動が起きたと聞きました。

この不買運動は、豊田から愛知県全体に拡げようとされたと聞きましたが、まもなく消えてしまいました。

今度は、この新聞を見た全国の同業者から、「個人間売買」とはどんな仕組みなのか?と電話が殺到しました。

電話だけでなく、毎日のように、訪問を受けてしまいこれまた大変な事態となってしまいました。



でも、これだけ、全国の自動車屋さんに興味を持ってもらっているなら・・・・

この機会に、この「個人間売買」をフランチャイズにして伸ばしていこう・・・・



発想が単純、無計画、ではありましたが・・・

ルートのフランチャイズは、2年で全国、北は、釧路・札幌 南は、徳島、宮崎まで、26店舗に広がりました。

本部である、ルート豊田は、創業からたいした仕事も出来ず・・

私は、創業と同時に、地元との反対対策・・その後、全国からの問い合わせの応対・・その後の全国回り・・・
フランチャイズ店の指導と悪戦苦闘・・


結果・・・負債ばかり積み重なり、昭和53年1月になり、とうとう行き詰ってしまいました。

行き詰まってしまう前の半年間は、毎日、お金に追われ、地獄の思いを味わいました。

何とか打開すべく、協力してもらっていた整備工場の社長に相談に行きましたが、良い話はできず、しょぼしょぼ帰ってきました。

その場に事務所の鍵を忘れてきたことなどは、もうろうとしていた私は気がつきませんでした。

7年ほど前になくなった母親に助けを求めましたが、一銭も出してはくれませんでした。
後でわかったことですが、その時母親は、3、000万円持っていました。

その母親は、「憂きことの、尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことばを紙に書いてくれました。

万事休す、もうなんともならない・・・

すべては終わってしまった。

今晩・・死のう!・妻や子供たちには何とか、生命保険で・・ときめました。

その日、見た、人生最後になるはずの夕日は、大きく真っ赤でした。

夕日をゆっくり見たのは何年か振りでした。

三好の森下交差点からの夕日でした。


その夜、ダイハツ、ハイゼットで矢作川を、死に場所を求めて、登っていきました。

昭和53年1月23日・・・月のとてもきれいな夜でした・・・


今だから言えることです・・・    また、時間をみて、つづきを書こうと思います。










ゴルフコンペ













第21回、ルート会ゴルフコンペは昨日、京和カントリーで無事開催できました。

32組、126名のご参加でした。

ご参加者のマナーのよさ、スコアーのレベルの高さは当地区一番だとの声を参加者の皆さんからいただきました。




写真は、パーティーであいさつをしているところです。

こんなに沢山の皆様に参加いただいたことに主催者として本当にうれしく思いました。


次回、第22回は、来年4月7日(月)  中京ゴルフ倶楽部を予定いたしております。

皆様のご参加を期待いたしております。


尚、私のスコアーは  93で  126名中、59番でした。
目標の、90を切る・・はできませんでした。





ゴルフコンペ

明日は、いよいよ・・第21回ルート会ゴルフコンペです。

このコンペは、10年半前から、春と秋、年2回開催してきました。

お客様、お取引先の懇親と「輪を拡げる」ことを目的に、はじめました。

私は、55歳で始めてクラブを握り、「ようしやるぞ!」まだ55歳・・「Go!”Go!”」と張り切っていました。



でも現実は、厳しいものがありました。
まず、参加者が集まりませんでした。
自分のゴルフは、運を天に任せて、クラブを振っているようなものでした。

参加者は、20名の予定だったのですが、18名しか集まりませんでした。

スタート記念のスモークボールをなんと””チョロ・!してしまい、ティーグランド前15M~20M位の位置で・・・
シュウ・・シュウと煙を出していました。
恥ずかしかったこと・・・・恥ずかしかったこと・・・・言葉では言い表せませんでした。

第1回目のコンペの成績は、146でした。

明日の、第21回は、参加者・・128名を予定しております。
沢山の皆さんが、平日にもかかわらずご参加くださり感謝しております。

加えて、沢山のご協賛もいただき感謝に耐えません。

今では、10年半前、無理やりながら、コンペを始めてよかったなーと思っております。


又、ルート会のコンペで、特筆できることがあります。

「ルート会は晴れる・・・」ということです。天気も味方してくれています。

21回の開催で、雨が降ったのは、確か、半日だけでした。

明日も、天気予報は・・・・晴れ!・・です。


話は、自分のことになり恐縮です。
私のスコアーは、今年の夏以降・・100が切れません。

直近、2回は・・109・・105でした。

明日のコンペは、好きなコース、京和カントリーなので・・・

何とか、90を切りたいと密かに思っています。
いつも、ゴルフに行くときは、「今日こそは!」と思っていくのですが・・・


明日は、天気も良いし、自分の欲は、二の次にして・・・・・・・・



ご参加くださる皆様が・・・・・

「楽しかった!」と言ってくださることを、楽しみに、参加したいと思っています。










本社・移動?



15年ぶりに事務所がかわります。


本社事務所は、ユーズネット豊田の二階にありました。


写真のように狭い事務所でした。

ここに7名が、デスクに向かって仕事をしていました。

何とかならないか?

となりの小さい会議室を事務所にしてしまおうか?

結論は、同一敷地内、西隣の「ユーズネット豊田錦」の事務所を使うことにしました。

「ユーズネット豊田錦」のお客様との商談は、国道248沿いの「ユーズネット豊田」ですることにしました。


今月7日(水)に引越しを予定しています。

「この日は、ちょっと予定があるんだけど・・」と言ったら、「いいですよ」と、すぐ返事が返ってきました。

引越しに、私はきっと邪魔なんでしょう。。。「口だけでは引越しは出来ない!」なんて言われそうです。

私がいなくても、引越しは充分できるはず・・・・

でもなんとなく・・さみしいものです。

次の週末には是非新しい事務所へいらしてください。

お待ちいたしております。







マレーシアへ行ってきました。



ユーズネットのスタッフ17名で、マレーシアの植林地を訪ねてきました。

ユーズネットグループの30周年を記念して、4年前から昨年まで、小学校2校と、トレンガヌ州の奥地に植林をしました。

今回の訪問は、両小学校とトレンガヌ州の開発公社を訪ね、交流をはかることと、植林した「木」に逢うことが目的でした。


写真のクバンカウ小学校では、4年前に植林した「木」が大きく育っていました。

3年前に日本へ招待した、子供たちも、今では中学生、大きくたくましく、成長していました。


メインの植林地は、トレンガヌ州の開発公社によって、「ユーズネットの森」として永久に保護されると約束されました。

「ユーズネットの森」を囲うように、大きな公園の計画が進んでいるとのことでした。


池が出来ます・・・

「ユーズネットの森」は斜面になっていますが、すぐ下に池が出来ます。
池にははすを植え、「ユーズネットの森」の木陰から、はすの花を見ることが出来ます。


駐車場の入り口に、赤い鳥居が出来ます・・・

道路と「ユーズネットの森」の空き地は駐車場になります。
その駐車場の入り口に、なんと、赤い鳥居が出来るのです。日本を強調したいのでしょうが、なんとなく、違和感があります。


サイクリングロードが出来ます・・・

「ユーズネットの森」を一周するサイクリングロードが出来ます。
遠い国です。我々ではちょっとサイクリングと言うわけにはまいりませんが。

「ユーズネットの森」の木々が大きくなり、周辺が公園として整備されるのが楽しみです。

今回訪ねた、2校とも、校長先生はじめ生徒さん十数名を2~3年前に日本へ招待しました。

この度の訪問では、招待したメンバーはじめ皆さんの、心のこもった歓迎をうけました。
でも、「もう一度日本を是非訪問したい」との話には、期待される返事をすることは出来ませんでした。

食事の違い・・気候の違い・・宗教の違い(イスラム教)・・言葉の違い・・受け入れるのは大変なんです。
期待に答えられず、申し訳ないとは思いましたが、とても難しいことなのです。



今回の、マレーシア旅行は、ユーズネットのスタッフのみでしたのに・・・
旅行中、今まで経験したことのない「孤独感」に襲われていました。

一番近い年齢のスタッフでも、20歳以上離れています。そして、たちばも違います。

でも・・・
20歳代、30歳代のスタッフが元気に楽しめば、楽しむほど自分と離れていくようで・・さみしくなってきました。

最終日のホテルで、一人で朝食を取っているとき・・・  孤独感は頂点に達していました。

年齢を重ねれば・・当然のことなのでしょうが・・・

「これから、もっと、もっと孤独になっていくのかなー」・・・

でも・・これは、やもう得ないことなのだろうなー・・・


この先は・・・ 孤独に打ち勝つ強い自分になる・・もしくは、 孤独を楽しむ自分になる・・ように、前向きに生きていこうと思います



         
      




今だから言えること・第8弾・

「〇〇君が、昨夜亡くなったんだって・・・」

「自殺だそうだよ・・家で首をつったんだって!」



これは、5年ほど前の話です。

彼は、今から28年前、昭和54年7月、当社にとって、2人目の男性スタッフとして入社しました。

整備士ということで、入社2~3年は、「当社の初期躍進」に大いに貢献してくれました。

入社当時、月間20台ほどだった販売台数は、5年後には、100台程になっていました。

この5年間の成長に、彼は大きく貢献してくれました。

ところが私が、整備の面で、頼れば頼るほど勤務態度は悪くなってきました。

昭和59年のあるとき、大型自動車の免許が取りたいとのことで、費用は負担することにしました。

免許が取れて間もなく新入社員の歓迎会がありました。

お酒が出るから、車では来ないように、と、皆に注意をしてありました。

当日、彼は車で行こうとしたので、注意したところ、「飲まないから大丈夫・・」とふてくされた態度・・

彼の「酒好き」を良く知っていた私は「飲まないなら、場がしらけるから、来るな!」ときつく言い渡しました。

プッ”とした態度で彼はどこかへ行ってしまい、歓迎会には、出てきませんでした。

翌朝・・彼が出社するなり、「やめさせてもらいます」・・

「今日中に荷物を片付けて出て行け!!」

これが、彼の第一回目の退社となりました。

彼はすぐ、トラックの運転手として働き出しました。

当社の費用で取った免許証で・・・それが私にとっては、とても悔しくて許せませんでした。


運送会社で3年ほど勤めたある日、「土、日バイトでよいので働かせてほしい」と言ってきました。

以前と違って、柔和な感じで言って来たので、バイトに来てもらうことにしました。

よく働き、感じも良く非常に助かりました。

バイトを2年ほど続けたあと、運転手を辞めてフルに勤めたいと申し入れがありました。

願ってもないと喜んで、再度きてもらうことにしました。

最初の頃はとてもよく働き、お客様の受けもよく、喜んでおりました。

3~4年経った頃又様子が変わってきました。

私の車が朝から置いてない日は必ず、友達と思われる人が数名・たむろ・するようになってきました。

私以外のスタッフは無視して、知人の車をさわっていたようです。

私が帰ってきてそれを見つけ、知人と思われる人々に出入り禁止を言い渡しました。

そのことが発端となり、第2回目の退社となりました。

その後は、以前と同じ運送会社に又、勤めるようになりました。


4~5年経って、また私のところへ来ました。

「年齢も40歳を越して、運転手は危険であるし、身体が付いていけない。」
「以前とは違って、ルートのため、家族のために、まじめに働かせてもらうから・・・」
家族のためと言われ・ほろり・としてしまいました。

今度こそは大丈夫とは、思いましたが・・・
社員としてではなく、「今度は請負の出来高払い」ということで来てもらうことにしました。
私には、請負だから、今度は大丈夫と言う思いがありました。

又数年たって、請負と言うことで、私の注意も及ばなくなって結果は・・・・
今までの、悪い状態に輪をかけた状態となってしまいました。

家族のため・・で始まった今回でしたので・・・注意をして・・半年後までの猶予を与えました。

半年たった時、もっと状況は悪くなっていました。

出て行ってもらうことに決定はしましたが、生活もあることだろうから、と、もう半年の猶予を与え出て行ってもらいました。

これが、第3回目の退社でした。



その後は、当社でしていたように、ある整備工場で出来高払いの請負で仕事をしていたようです。

冒頭の「彼が自殺した!」の話が私に伝わったのは・・・彼が当社を出て行った、一年後の夏でした・・・


葬儀に出させてもらって、奥さんと別れてしまっていたことをはじめて知りました。

あれだけ、「家庭が大切」と彼は行っていたのに・・・

家庭が大切なら・・・やはり仕事を大切にすべき・・・と・つくづく思いました。


遺影に手をあわせながら・・・
当社が彼を出さなかったら、この事態にはならなかった・・

でも・・・彼を、そのまま、おいていたら・・・
当社の方が、持たなくなってしまったのでは・・・

私の、決断は・・間違っていなかったはず・・・

・・私の、指導力がもっとあったなら・・など・・いろいろ、考えさせられました・・・


今だから言えることでした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合掌・・・



















血圧



今月、24日から、マレーシアへ行ってきます。

昨年まで、3年かけて、マレーシア、トレンガヌ州で植林によってユーズネット森を作ってきました。

ユーズネットのスタッフ18名で、その森の木たち、手伝ってくれた子供たちに逢って来ます。



一年ぶりの再会で、今から楽しみにしているところです。



健康でなければ、楽しみどころか、スタッフに迷惑がかかってしまいます。

と言ううことで、血圧を計ってみました。

上が・・・129

下が・・・ 84 でした。 この数値を見て、元気が2倍になりました。





建設反対・・






自宅(名古屋市緑区)近くでマンション建設が始まりました。

その建設マンションの隣のマンションに「建設反対」の、のぼり旗が所狭しと立てられました。




聞いてみると、基礎工事の段階で周囲に陥没が起きたとか。





豊田でも、マンション建設反対の、のぼり旗は2~3年前に見たことがありました。

今回のぼり旗で訴えている相手が、トヨタホーム(株)であることに、どうして?と思いました。

トヨタホーム(株)はディーラーとのことですが、・・トヨタ・・の3文字があって、どうして?と思えてなりません。

豊田市で仕事をしていて、私にとって・・トヨタ・・は絶対と思っています。


このマンション建設が豊田市内であったら・・・

もっと早い段階で、話し合ったり、工事の仕方で手を打ったり・・・

少なくとも、今回のように、付近の住民こぞっての反対運動には、至らないと思います。

・・トヨタ・・は絶対!と思っている私の前から・・


     
   

      建設反対の、のぼり旗は、はやく、なくなってほしいものです。






伝説の人??

カローラ・ルミオン店頭発表会に、トヨタカローラ愛豊・豊田店へ行ってきました。

カローラ愛豊は、私が昭和41年から43年まで、2年だけですが、新車セールスとして勤めていた会社です。

ショウルームの入り口で、豊田地区の営業部長が私を見つけ、笑顔で迎えてくれました。

今日は本社から、専務が来ているから紹介すると言われ、紹介してもらいました。

専務さんの顔を見てびっくり、私の在籍時代の後輩だったのです。約40年ぶりの、懐かしい再会でした。

その専務さんが今度は、私をたまたま来られていた、トヨタ自動車の、カローラ店営業本部長に紹介してくれました。

「カローラ愛豊の、伝説の人」と私を紹介してくれました。

勝手にやめて、しかも40年も経った今、私を「伝説の人」と言ってもらえた事に、私は非常にうれしく思いました。



愛知トヨタに入社して、ガソリンスタンド勤務5年
グループ会社のトヨタカローラ愛豊が、パブリカ・カローラの新車の販売を始めると言うことで、転籍となりました。
愛知トヨタから新車販売経験者と私のような、未経験者含め、約120名で販売が始まりました。
 その120名の中で、自分は根拠もなく、絶対1番になろう・いや、なるんだと・とおもってい
ました。

〇 昭和41年8月  トヨタカローラ愛豊の新車販売、第1ヶ月目に新人の私が13台で、1番になりました。
  先輩セールスの人たちは、「あんなものは、”線香花火だ”続くはずがない!」と、陰で言っていたようです。  

〇 翌月、9月から、3ヶ月間の、「オールトヨタ、ハワイキャンペーン」が始まりました。
   

全国のトヨタ販売店から優秀セールスを選抜して、初めて海外へ招待するキャンペーンでした。
   全国から、約100名ほどと聞きました。
   当時ハワイへ行くには、1,000ドル必要でした。1ドル360円の時代です。36万円・当時の私の年収分です。
   発表されて即座に私は、「ハワイへ行くぞ!」と、勝手に決めていました。
   


  ● 9月からキャンペーンは始まりました。
   
 がんばり過ぎた私は、25日頃、急性腎炎で倒れてしまいました。
    見舞いに来てくれた人の話で、9月も14台販売した私が1番だったと聞きました。
    10月は1ヶ月間寝たきりでした。
    11月10日頃、出勤の許可がやっとでました。短時間のデスクワークなら、との、条件付きでした。
    キャンペーンが終わって、10日ほどで発表になりました。
    期間中37台達成で、私のハワイ行きが決まりました。
    愛知県のカローラ店5社、セールスマン数、1、300人の中から4人が憧れのハワイへ行くことになりました。


  ● ハワイで他社のセールスマンの引き抜きに成功!
    ハワイで同室になったのは、私と同じ地域を担当していた、他社の優秀セールスマンでした。
    私にとっては、死んでほしいくらいの「敵」でした。
    ハワイでの一週間でその「敵」を引き抜くことに成功して、会社への「おみあげ」にしました。
    会社ではびっくりされ・・・わたしにとっては、昨日までの敵が味方に変わって、おおいに、協力して貰いました。


〇  3月1ヶ月間の社内キャンペーン開催
  ● ハワイから帰ってすぐ、3月に販売キャンペーンを行うと発表がありました。
  ● 1番・・・8万円  2番・・・5万円 と言うものでした。(当時私は、基本給3万円手当て込み8万円位でした。)
    早速その夜、私は、高校当時の同級生が勤めていた、住吉町の、クラブ「ココボ」へ行きました。
    4月〇日に必ず支払うと言う約束で・・すいていたお店ほぼ貸切で、8万円使ってしまいました。
  ● 1番になり約束どうり、支払いをすることはできました。でも次の給料で多額の所得税には悩 まされました。


〇  1年が終わり年間順位が発表されました。
  ● 年間160台で私が1番でした。2位は確か、110台にも達していなく、差は、50台以上ついたと思います。


翌年、昭和43年春、出勤途上、鶴舞交差点で追突事故にあってしまいました。
その時の、保険会社からの賠償金、と、退職金をもって退社して、中古車会社を設立しました。
バックアップしてくれる親会社があってのことでした。
    
    
あんな、こんなで・・・私は「伝説の人」なのです。
  
   
 今だから、言えることでした。 








軽大会を終えて



 軽大会は、6日・7日二日間、豊田スタジアムにて無事終了いたしました。


天気にも恵まれ、沢山の皆様に楽しんでいただけたと思います。


2日間のご来場は

6日(土)  1、373名
7日(日)  1、773名
 
合計    3、146名


ご成約

6日 23台
7日 28台

合計 51台

その後の一週間で、継続商談よりの、ご成約見込み・・・約 30台

第2回「軽大会」 合計ご成約予測  約  80台

以上のご成約成果が期待できますのも、協力くださった、軽自動車ディーラー各社及び
協賛出店してくださった、皆様のおかげと感謝いたしております。

ありがとうございました。


2日間、会場にいて、ユーズネットグループのスタッフの献身的な行動が心に残りました。

前線の営業スタッフのみならず・・・
うしろでがんばった、スタッフ・・・

ありがとう!
こんなに、すばらしいスタッフに恵まれた、ユーズネットグループ・・・

「日本一」のスタッフと仕事が出来る幸せをしみじみ感じた、「軽大会」でした。






軽大会

対前年、マイナス、1台!

我がユーズネットグループの、9月度の販売台数は残念ながら、前年をクリアーできませんでした。

今週の、6日(土)・7日(日)に、豊田スタジアムで開催する、第2回「軽大会」に期待がふくらみます。

前回開催した時にアンケートにて、沢山の声をいただきました。

〇 各メーカーの軽自動車を、一度に見比べることが出来て、非常に良かった。

〇 今回は時期ではなかったが、近じか買い換えたい、次はいつ開催するのか。

〇 定期的に是非開催してほしい。

軽大会が、お客様に支持されていることが、アンケートから、直接お客様の声から伝わってきました。

ここ2.3年、お蔭様で順調に伸ばさせていただいた販売台数に、今年になって変化が見えてきました。

今年になって、前年割れする月が、9ヶ月のうち2~3ヶ月、見られるようになってきています。

地域のお客様の、大きなご期待と・・・
ユーズネットグループの現在の事情から、軽大会に大きな期待がかかる訳であります。


今日の、業界紙、及び経済紙に本年上期と、9月単月の国内及び、愛知県の新車登録台数が載っていました。

● 本年国内、上期4~9月・・・・74(昭和49)年に次ぐ低水準!

● 愛知県、 上期4~9月・・・・10%減(対前年)減少幅全国上回る!

         軽も苦戦・・・・9月単月は、14%減
         (但し・・愛知県のスズキは2・5%増  ダイハツは3・4%増)

  国内の新車(普通車も軽も)は売れていないが、愛知県では、スズキ・ダイハツの軽は善戦しているということでした。

同時期の当グループは・・・スズキの軽が、前年比、30%プラス、ダイハツの軽が、25%プラスにはなっています。

が、しかし、残念ながら、普通車の中古車はマイナスになってしまっています。

と言う事情もあり、「軽大会」は絶対成功させなければなりません。


第2回、軽大会は、今週末、6日(土)・7日(日)二日間、豊田スタジアム、西イベント広場にて・・・
                                         お待ちいたしております。

 



屋久島

「お話があります。困っています。コ・子供が産まれるんです。」


予定日は、来年1月、あと5ヶ月とのことです。

昭和54年2月に、募集張り紙を見て、入社してくれた、男性1号スタッフのKクンです。

「社員募集、重労働・低賃金に耐えられる人」と書いた張り紙を見て、入社してきました。

Kクンが私に話したのは、入社して、半年後の朝でした。

「困ることなんか無いじゃないの、おめでとう”じゃない?」

それが、彼女の親には、まだ話してなく、話せば、「すぐ帰って来い”」と、ど叱られる!と、小さくなっていました。

彼女の実家は、鹿児島県の屋久島で、漁業を営んでいるとのことでした。

「よしわかった。俺が一緒に行ってあげるから、彼女と準備をしなさい。」

当時の当社の状況は、くるまを売ることが出来るのは、私だけ・・加えて、多大な借金で、文字どうり「火の車」
の状況でした。

急ぎ準備をし、旅費も何とか工面して、3日後には屋久島の空港に降り立つことが出来ました。

実家は、屋久島の南端、「中間」と言う部落にあり、家の前がすぐ海岸でした。

海側には扉はなく、板縁からあがらせてもらいました。奥に、ござが敷いてありそこに6人用の座卓がおいてありました。

奥側左にお父さん、右にお母さんが座られました。

ゴザに額をすりつけて、まず、監督不行き届きをあやまりました。

Kクンはこれからが期待できる好青年。今後は力を合わせて立派な会社にします。どうか、結婚と豊田での生活を認めてほしい。とお願いしました。

びくびくしながらでしたが、さすがに、娘さんの大きいおなかを前にして、だめとは言われず、すべてを許してもらいました。

その夜は、ゴザの上に布団を敷いてもらい休みました。
直接聞こえる波の音がとてもさわやかに思えました。

その翌日になり台風が接近していることを知りました。今夜、屋久島直撃との予報でした。

とびらのない、あけっぴろげの家に、板を打ちつけたり、家の外のものを片付けたり、台風に備える準備を手伝いました。

その夜、予報どうり台風は直撃でした。早々に停電になりました。

真っ暗な中、荒れ狂う波・・風の音・・雨の音・・とても寝付ける状況ではありませんでした。

翌日の飛行機は欠航になってしまいましたが、何とか役目を果たし、1日遅れで豊田に帰ってきました。


Kクンの結婚式は、急ぎ12月に行われました。

そして、1月か2月に長女が無事誕生しました。

その後Kクンは、岡崎店の店長を最後に退社してしまいました。
岡崎店の業績がいまひとつで、私が厳しい言葉で追い詰めてしまったのが原因だと思います。

もっと、スタッフを思いやる、やさしい指導が出来なかったかと、反省しております。
Kクンの退社から多くを学ばせてもらいました。


あの時の、長女は、今、27歳です。
結婚して、子供さんにも恵まれたと、うわさに聞きました。
Kクンも、今では、いいおじいちゃんになっていることと思います。


今だから言えることでした。

















ここに自己紹介が入ります。ここに自己紹介が入ります。ここに自己紹介が入ります。ここに自己紹介が入ります。

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