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創業当時のルート

54年1月・・・大変なことになってしまいました。

 130万ほどで買った、セリカリフトバックの支払いが、約束の日に出来なくなってしまいました。

その車の代金は、あるお客さんが、トヨタカローラ名古屋で新車に乗り換えるための頭金でした。

お客さんは、真っ青・・困惑するディーラーは・・新車が納まらず、大変な問題になってしまいました。

お客さんの代理で、ディーラーの課長さんが支払いの催促に来られました。

どなたが来られようが、お金がないので払えません。一週間待ってほしいと頼みましたが、答えは、「NO」でした。

ディーラーの課長さん、らちがあかないと思い、「明日中に支払ってもらえなければ、ここの商品車全部もらって行く!」

なかば、捨て台詞のように言われました。その時当社には、安い車ばかり7台ほどありました。

私は、その課長さんの話に「しめた!全部持っていってもらおう」と、心の中で決めました。

翌日、課長さん率いる、何人かのスタッフが、私を見下したような態度を取りながら、意気揚々と全部の車を持っていきました。

一日にして、7台の車が、130万円で売れました!!!



一台も商品車はなくなりましたが・・・支払う予定にしていた、130万円は2~3日後に用意できました。


お蔭様で、願ってもないチャンス・・・いやな思いはしましたが、再出発することが出来ました。


よし!再出発だ・・・
〇 売値の幅を、昨年のヒトケタ車に加え十万円台のものまで拡げました。

〇 男性スタッフを入れて、3人体制にしました。

〇 クレジットが取り扱えるようにしました。

〇 折り込み広告を出すことにしました。


売値の幅は、毎年10万円ずつ上げていこうと、計画しました。(この計画で、新しい商品車を入れることにしました。)

取り扱い車種も毎年拡げていこうと思い、軽・ライトバン・クラウンクラスは来年以降に温存しました。

黄色いちらしで、赤一色の写真と文字、片面のチラシを月に3回、地域を絞って折り込むことにしました。
(裏は、メモにお使いくださいと書きました。)

このチラシ作戦は、お金の用意があってしたものではなく、全くの「ばくち」でした。

田岡信夫著、ランチェスター戦略を読み、参考にして勝負をかけたものでした。

外れれば、もとのもくあみでした。

一回目、反応なし・・

二回目、3~4人の来場・・売り上げ 0台

3回目、なんと、20人ほどのご来場で、10台売れました。


この成功によって、この年、月の売り上げ12~13台から始まって、12月には40台ほどに成長できました。


今だから言えることです。


   又、つづきをかきます。










創業当時のルート

借金返済と、仕入れ・経費支払い、毎日が地獄でした。

約束した日に支払いが出来ないことが、たびたびでした。

 約束の支払いが出来ないときは、朝一番で謝りの電話をするようにしていました。

いやな・・言いにくいことは先に済まさないと、一日中憂鬱で仕事になりません。

そんな苦しい時、ある人から、楽になるからと、シャブ(麻薬)を薦められました。

楽になりたい!でも・・・

シャブには手を出しませんでしたが、とても良い、勇気の出ることを発見しました。


 それは・・・

言いにくいことを、言う前・電話する前に、「冷や酒」をコップ一杯グィッと一気に飲み干します。

すると、顔が暖かくなる寸前に非常に勇気が出るということでした。

あの頃は常に、一升瓶を用意しておりました。


 商談している最中に、電話が鳴り、支払いの催促されると、商談はこわれてしまいます。

考えて、電話機のベルにテープを巻きつけ、音は出ない・・かすかに振動するのみにしました。

電話のベルが鳴らなくなって、商談に力が入るようになりました。


 お客様から犬をもらってきました。

事務所の中において、私が裏で整備などしている時、表にお客様がいらっしゃったら、「ワン、ワン」とほえる・・・

私がその鳴き声で、来客を知り、事務所に入ると、ぴたっと、鳴き止むようにしつけました。

一人の人件費が節約できました。名前は、ナッキーといいました。

13~14年生きて亡くなりましたが、その時の悲しみから、もう・・犬を飼うのは絶対いやだと思いました。

ナッキーには、仕事上と、癒しの両面で助けてもらいました。



 必死の日々を送っていましたが、その頃、自宅へは一円も持ってはいけませんでした。

妻は子供たちに食べさせるため・・・

朝、3時か4時に家をでて・・牛乳配達・それを済ませてすぐに新聞配達・・

家へ帰って、子供たちを学校に出し・・スーパーでレジのパート・・

いくら頑張ったとはいえ・・・

子供たちには、とても人並みにはしてやれなかったはずです。

おかげでそんな中にありながら、子供たちはまっすぐ以上に育ってくれているようでした。

迷惑だけかけて何にもしてあげれていない、だめな父親に、「お父さん、いつもお仕事ありがとう!」の手紙・・・

涙なくして読めませんでした。

時折もらう手紙が励みとなり、歯を食いしばることが出来ました。



 数日の電話番、と言うことで来て貰い、間もなく30年になる、苅谷部長

初めの頃は、約束の給料も一度には支払えませんでした。

支払えるときに1万・2万と支払っていました。

その少ないお金から、最初に買ったのは、お米ではなく・・

通勤のバスの回数券であったと聞き、ジーンと来てしまいました。




お客様に恵まれ、周囲に支えられて、最悪から1年経ちました・・・


54年2月~3月で一気に勝負に出ることにしました。

文字どうり、「ダメもと!で」


    今だから言えることです。


              つづきはまたかきます。





















創業当時のルート

昭和54年の正月を迎えることが出来ました。


元旦の夜・・
事務所2階の寝起きしている部屋に、なかばやけっぱちで、大きな文字を3枚書きました。

   「命かけて」


   「今に見ておれ、俺は日本一」


   「この道より、我を生かす道なし、この道を歩く。 この道は、日本一への道」            (これは、武者小路実篤の言葉に日本一を加えたものです)


 自分で書いた3枚をじっと見つめながら、今の夢を、4つ書きました。


① 借金を完済する  (目標期限、4年後・・昭和58年末)

② 月に100台売れる店にする  (達成期限、9年後・・昭和63年末)

③ 豊田まつり(現、おいでんまつり)に仕掛け花火を出す  (実行期限、9年後・・昭和63年)

④ 社員旅行で海外へ行く  (実行期限、9年後・・昭和63年)

その時の自分からすれば、夢の夢を書いたのでした。


4つの夢を目標に、行動を開始しようと熱く、熱く思いました。

すべての夢の達成は、販売台数アップにかかっていました。

今年中に、30台を達成させよう!

燃えに燃えて、54年の仕事が始まりました。


すべてのもと販売台数を上げるには、人が必要だと言うことで、店の前に張り紙を出しました。

「社員募集・・低賃金、重労働に耐えられる人」と・・


2月にK君、7月に整備のI君が入社してくれ、月販30台の体制は何とか整い、販売に勢いがついてきました。

この年(昭和54年)の暮れには、なんと、月の販売台数、40台まで売れるようになリました。



この販売台数増を振り返ると・・・

〇  昨年は、ヒトケタ万円(9万円まで)の商品だけであったものを、ヒトケタに加えて、最高販売金額、10万円台(19万円)まで拡げたことが大きく貢献しました。

〇  3月からクレジット会社と契約が出来、オートローンで買ってもらえるようになったこと。(ジャックスには今でも感謝をしています)

〇  スタッフがそろい、私の販売対応時間が確保された。

〇  ランチェスター戦略(田岡信夫著)に出会い、ルート豊田のように、弱い企業でも、地域・商品・お客様を絞れば勝てると信じて行動した。


54年年初に立てた目標は、すべて期日どうりとは行きませんでしたが、すべてを達成することが出来ました。


①  借金を完済する・・・昭和58年末期限    53年1月時点での借金は、56年末までには、ほぼ完済。
    3年前倒しで達成、(一日16時間労働、3年近くの1、000日無休、毎月200万~300万返済を続けました。)

②  月に100台売れる店にする。・・・昭和63年末期限   57年12月、100台達成
    6年前倒しで達成、(後に問題は起きましたが、非常に売ることがうまい男が入社)

③  おいでん祭りに、「仕掛け花火」を出す・・・昭和63年期限  平成4年に初めて「仕掛け花火」を協賛
    (昭和53年夏、他社の打ち上げ花火を見て、俺は仕掛け花火だ!と誓って、15年かかりました)

④  社員旅行で海外へ行く・・・昭和63年期限    平成4年末、スタッフとその家族をグアムへ招待
    (家族が一緒のため、旅行はまとまりがなく・・その後はお客様招待に変えました。)


期日はまちまちに達成しましたが、熱く思い・・目標をきちんと定め・・目標から目を離さなければ、必ず達成できるものだとつくづく思います。


100台達成したとき、大きく貢献してくれたのは、当社の最悪時、事務所から、すべてを運び出した、当時の整備工場の社長でした。

当社が、その整備工場に借金を返し終わった頃から、経営状態がおかしくなり、ついには、警察に捕まるような悪いことをしてしまいました。

その社長、O氏に保釈金を出して、入社させ、100台達成に貢献してもらったのでした。


今だから言えることです。

               創業当時のルート・・もう少し続けたいと思います。








創業当時のルート

事務所の中は、黒い電話機が一つ床にぽつんとおいてあるだけ。

その電話も切られていました。

家賃は半年間支払いが、たまっていました。

 その大家さん、例の整備工場はじめ支払いができていない先、30~40口でした。

まず、大家さんから始まり、出きるかどうかも確かではない、当時としては、夢のような計画を、頭を下げながら話して回りました。

全く入金の当てがない自分は、何を言われても平気、開き直ることが出来ていました。

必ず払うと言う信念だけは持っており、とても強くなっている自分に気がつきました。



 とは言え、なんとしても仕事は再開しなければすべてが始まりません。自分の命もかかっています。

そのためには、まず電話を開通させなければなりません。そして自分には、生きるための食料が必要です。

以前バイトをしてくれていた、大学生(現在は、愛知トヨタで営業所長をしています)に頼んで、10万円一ヶ月の期限付きで、友達から借りてきてもらいました。

お蔭様で、そのお金で電話は開通・・・自分の命の糧、インスタントラーメンも買えました。

当分の間、家内と子供は両実家へ身を寄せることになりました。

古い机と椅子をめぐんでもらって、曲がりながらではありますが、再建のスタート準備ができました。


 債権者も持っていかなかった、古い車2台を、国道から見える位置に並べました。

価格表なるものもなく、水生マジックでガラスに値段を書きました。

6万円と8万円でした。

値段を書いて、じっと待っていました。

国道を通る車からのぞきはしてくれるものの、降りて来てくれる人はありませんでした。

再建スタートから、待つこと、約2週間・・・

一人の若い人が車を止めて降りてきました。

なんと、6万円の車を見てくれているではありませんか・・・

自分は、この人を離してしまったら・・・立ち上がれない・・・「半殺しにしてでも売るぞ!」文字どうり、命を賭けた商談、になりました。

買ってもらいました!!瀬戸に住んでいる人でした。

早速、その売上金のなかから、現金を5万円程持って、ディラーへ仕入れに行きました。

古い車、でも程度が良い車を、2台を仕入れてきました。

こんなスタートを切った、再建、「ルート豊田」は、その月、昭和53年3月・・・7~8台の販売ができました。

当初、借りた10万円は、約束どうり返すことが出来ました。



超、安い車しか仕入れが出来なく、仕方なく始まった超低価格車の販売でしたが、やってるうちに、この価格帯に、充分マーケットがあることに気がつきました。

競争相手は全くなし・・・
利益率は高い・・・(但し利益そのものは少ないですが)
仕入れが楽(同業は誰も扱っていなかった)

半年も経たずに、月に13台くらいまで売れるようになりました。が、忙しすぎて、まず、電話番がなくては、もうこれ以上は望めなくなりました。

9月から・・・(結果、うそになってしまいましたが)・・・名古屋市名東区からバスを乗り継ぎ2時間かかるため、少しの間だけの約束で、電話番を頼むことにしました。その人は、間もなく、勤続30年になる、ユーズネット本部の苅谷部長でした。


留守番が来てくれたことで、その年の暮れには、20台近く売れるようになっていました。

昭和53年12月31日・・・今年中には何とか仕上げたいと、その夜、スズキの軽クーペのエンジンの乗せ替えをしていました。

近くのお寺から、除夜の鐘が「ごーん・・・ごーん」と聞こえてきました。


ジャッキで上げた、車の下で仰向けのまま聞いた、除夜の鐘には、涙が止まりませんでした。

狭い車の下で、泥と油と涙で、くしゃくしゃになって”昭和54年を、何とか、迎えました。


今だから言えることです。

             つづきは、又時間があるときに書きます。


























創業当時のルート

月のきれいな夜でした。

 右手に見えかくれする、矢作川の川面は、月の明かりで、キラキラと輝いていました。

自分を死に至らしめるための、ひも・ホースなど、すべを持っていないことに気づき、通りにあったガソリンスタンドへ乗り入れました。

「待てよ、俺は今、びた一文、持っていない!」

あわててスタンドを出て又走り出しました。

月原の手前か、藤沢あたりだったか・・・道路と矢作川の間に竹やぶがありました。

その空地に車を止めて、矢作の川面を、ぼうと眺めておりました。

今まで、本物でなかった自分のために、迷惑をかけてしまった、いろいろな人々が、浮かんでは消えていきました。

まるで、走馬灯のように・・・

 家では、満足な食事もない子供たちが、今夜もさみしく”ひもじい食卓”についていることだろう。

「ごめんなさい」「がんばって立派な大人になって・・・」




 車ごとダムに突っ込むか・・高い場所を見つけて車ごと・・

死に至るための、方法がきまりました。

いざと思い、バックしようと思った・・その時・・私の後ろから、「お・と・う・さーん!!」

子供たちの、「呼び声」が聞こえてきました。


「はっと」・・・・この呼び声で・・・われに帰ることができました。


「そうだ、俺には、子供たちがいる・・・文字どうり、死んだつもりで・・子供たちのためにがんばろう!」

「死んだつもりで・向かえば怖いものはないはずだ!」

「ようし!どんなことがあろうが・・・何年かかろうが・・・」


 来た道を今度は、下っていきました。

帰り着いた「ルート豊田」の事務所は、もぬけの殻になっていました。

15坪の事務所には、床に、黒い電話機がぽつんと置いてあるだけになっていました。

助けを求めて、相談に行った協力会社の整備工場が、トラックで来て、すべてを持って行ってしまったのでした。

相談に行ったとき、事務所のキーを忘れて来てしまいました。



外には、だれも持っていかなかった、車が2台だけありました。


翌日、義理の兄の紹介で弁護士さんに、この先のことを相談に行きました。

私の話を一通り聞いた弁護士さん、「あんたのケースは、ことが小さくて、いわゆる倒産の仲間には入らないよ」

「3000万や、5000万は頑張って仕事をして行けばどうにでもなる筈。」

「ましてや、債権者が、30人そこそこなら、明日から、いや、今からでも謝って回ればいいではないか。」

「そして、頑張った中から、少しづつ返していけばいい・・」

3000万・5000万は計算ができていなかった数字で、結果は、8000万から9000万の返済になりました。

あまり取り合ってももらえませんでした。


帰り際に、「一本吸っていきなさい」と、確かロングピースを差し出されました。

「今日のこのタバコの味を忘れないようにしなさいよ」といわれました。

おいしいピースでした・・・味は忘れましたが・・・おいしかったことは忘れられません。


今だから言えることです・・     

・・・・・・・・また、時間が許されるときを見計らって、  つづきをかきます。・・・・・・・・















創業当時のルート

私は、日本で始めての「中古車の個人間売買」をはじめようと、豊田の地を選んで、緑区から出てきました。

昭和51年5月、「ルート豊田」の名前で、国道248沿いの貸し店舗で創業しました。

社名のルートは、流通と言う意味からつけました。

オープン早々、当地の同業者から反対の声があがりました。

反対の理由は・・・

①  個人間売買は、今までの中古車屋の仕入れ価格、売り価格を明らかにしてしまい商売がとてもしにくくなる。

②  豊田で自動車屋を営業するなら、〇〇自動車  〇〇モータースのような名前にしてくれ・・・
    でないと、業界秩序が乱れる。                                                          (豊田の自動車屋さんは、自分の姓、または地名のあとに、自動車・・または、モータースとなっていました)

③  自動車屋は地元で営業するもの・・・だから君は名古屋の緑区で開業すべき。

④  自動車屋は広い土地ですべき、貸し店舗で自動車屋をするなんてもってのほか。業界をなめてはいかん!
    (確かに当時の自動車屋はみな広い土地で営業していました。)


  毎日「ルート豊田」へ来て、私の商売をやめさせようとしました。6人ほどの人たちでした。

困った私は、以前から親しかった、自動車新聞の記者に話しました。(今年の1月に亡くなられた、当時の林記者でした)

なんと、このことを、林記者は全国紙、日刊自動車新聞に、見開き2ページにわたって書きました。

あまりに大きな記事に私のほうがびっくりしました。

これによって、地元の同業者は「ルート豊田」へは、直接来なくなりました。

でも、今度は、日刊自動車新聞に対して、不買運動が起きたと聞きました。

この不買運動は、豊田から愛知県全体に拡げようとされたと聞きましたが、まもなく消えてしまいました。

今度は、この新聞を見た全国の同業者から、「個人間売買」とはどんな仕組みなのか?と電話が殺到しました。

電話だけでなく、毎日のように、訪問を受けてしまいこれまた大変な事態となってしまいました。



でも、これだけ、全国の自動車屋さんに興味を持ってもらっているなら・・・・

この機会に、この「個人間売買」をフランチャイズにして伸ばしていこう・・・・



発想が単純、無計画、ではありましたが・・・

ルートのフランチャイズは、2年で全国、北は、釧路・札幌 南は、徳島、宮崎まで、26店舗に広がりました。

本部である、ルート豊田は、創業からたいした仕事も出来ず・・

私は、創業と同時に、地元との反対対策・・その後、全国からの問い合わせの応対・・その後の全国回り・・・
フランチャイズ店の指導と悪戦苦闘・・


結果・・・負債ばかり積み重なり、昭和53年1月になり、とうとう行き詰ってしまいました。

行き詰まってしまう前の半年間は、毎日、お金に追われ、地獄の思いを味わいました。

何とか打開すべく、協力してもらっていた整備工場の社長に相談に行きましたが、良い話はできず、しょぼしょぼ帰ってきました。

その場に事務所の鍵を忘れてきたことなどは、もうろうとしていた私は気がつきませんでした。

7年ほど前になくなった母親に助けを求めましたが、一銭も出してはくれませんでした。
後でわかったことですが、その時母親は、3、000万円持っていました。

その母親は、「憂きことの、尚この上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことばを紙に書いてくれました。

万事休す、もうなんともならない・・・

すべては終わってしまった。

今晩・・死のう!・妻や子供たちには何とか、生命保険で・・ときめました。

その日、見た、人生最後になるはずの夕日は、大きく真っ赤でした。

夕日をゆっくり見たのは何年か振りでした。

三好の森下交差点からの夕日でした。


その夜、ダイハツ、ハイゼットで矢作川を、死に場所を求めて、登っていきました。

昭和53年1月23日・・・月のとてもきれいな夜でした・・・


今だから言えることです・・・    また、時間をみて、つづきを書こうと思います。










ゴルフコンペ













第21回、ルート会ゴルフコンペは昨日、京和カントリーで無事開催できました。

32組、126名のご参加でした。

ご参加者のマナーのよさ、スコアーのレベルの高さは当地区一番だとの声を参加者の皆さんからいただきました。




写真は、パーティーであいさつをしているところです。

こんなに沢山の皆様に参加いただいたことに主催者として本当にうれしく思いました。


次回、第22回は、来年4月7日(月)  中京ゴルフ倶楽部を予定いたしております。

皆様のご参加を期待いたしております。


尚、私のスコアーは  93で  126名中、59番でした。
目標の、90を切る・・はできませんでした。





ゴルフコンペ

明日は、いよいよ・・第21回ルート会ゴルフコンペです。

このコンペは、10年半前から、春と秋、年2回開催してきました。

お客様、お取引先の懇親と「輪を拡げる」ことを目的に、はじめました。

私は、55歳で始めてクラブを握り、「ようしやるぞ!」まだ55歳・・「Go!”Go!”」と張り切っていました。



でも現実は、厳しいものがありました。
まず、参加者が集まりませんでした。
自分のゴルフは、運を天に任せて、クラブを振っているようなものでした。

参加者は、20名の予定だったのですが、18名しか集まりませんでした。

スタート記念のスモークボールをなんと””チョロ・!してしまい、ティーグランド前15M~20M位の位置で・・・
シュウ・・シュウと煙を出していました。
恥ずかしかったこと・・・・恥ずかしかったこと・・・・言葉では言い表せませんでした。

第1回目のコンペの成績は、146でした。

明日の、第21回は、参加者・・128名を予定しております。
沢山の皆さんが、平日にもかかわらずご参加くださり感謝しております。

加えて、沢山のご協賛もいただき感謝に耐えません。

今では、10年半前、無理やりながら、コンペを始めてよかったなーと思っております。


又、ルート会のコンペで、特筆できることがあります。

「ルート会は晴れる・・・」ということです。天気も味方してくれています。

21回の開催で、雨が降ったのは、確か、半日だけでした。

明日も、天気予報は・・・・晴れ!・・です。


話は、自分のことになり恐縮です。
私のスコアーは、今年の夏以降・・100が切れません。

直近、2回は・・109・・105でした。

明日のコンペは、好きなコース、京和カントリーなので・・・

何とか、90を切りたいと密かに思っています。
いつも、ゴルフに行くときは、「今日こそは!」と思っていくのですが・・・


明日は、天気も良いし、自分の欲は、二の次にして・・・・・・・・



ご参加くださる皆様が・・・・・

「楽しかった!」と言ってくださることを、楽しみに、参加したいと思っています。










本社・移動?



15年ぶりに事務所がかわります。


本社事務所は、ユーズネット豊田の二階にありました。


写真のように狭い事務所でした。

ここに7名が、デスクに向かって仕事をしていました。

何とかならないか?

となりの小さい会議室を事務所にしてしまおうか?

結論は、同一敷地内、西隣の「ユーズネット豊田錦」の事務所を使うことにしました。

「ユーズネット豊田錦」のお客様との商談は、国道248沿いの「ユーズネット豊田」ですることにしました。


今月7日(水)に引越しを予定しています。

「この日は、ちょっと予定があるんだけど・・」と言ったら、「いいですよ」と、すぐ返事が返ってきました。

引越しに、私はきっと邪魔なんでしょう。。。「口だけでは引越しは出来ない!」なんて言われそうです。

私がいなくても、引越しは充分できるはず・・・・

でもなんとなく・・さみしいものです。

次の週末には是非新しい事務所へいらしてください。

お待ちいたしております。







マレーシアへ行ってきました。



ユーズネットのスタッフ17名で、マレーシアの植林地を訪ねてきました。

ユーズネットグループの30周年を記念して、4年前から昨年まで、小学校2校と、トレンガヌ州の奥地に植林をしました。

今回の訪問は、両小学校とトレンガヌ州の開発公社を訪ね、交流をはかることと、植林した「木」に逢うことが目的でした。


写真のクバンカウ小学校では、4年前に植林した「木」が大きく育っていました。

3年前に日本へ招待した、子供たちも、今では中学生、大きくたくましく、成長していました。


メインの植林地は、トレンガヌ州の開発公社によって、「ユーズネットの森」として永久に保護されると約束されました。

「ユーズネットの森」を囲うように、大きな公園の計画が進んでいるとのことでした。


池が出来ます・・・

「ユーズネットの森」は斜面になっていますが、すぐ下に池が出来ます。
池にははすを植え、「ユーズネットの森」の木陰から、はすの花を見ることが出来ます。


駐車場の入り口に、赤い鳥居が出来ます・・・

道路と「ユーズネットの森」の空き地は駐車場になります。
その駐車場の入り口に、なんと、赤い鳥居が出来るのです。日本を強調したいのでしょうが、なんとなく、違和感があります。


サイクリングロードが出来ます・・・

「ユーズネットの森」を一周するサイクリングロードが出来ます。
遠い国です。我々ではちょっとサイクリングと言うわけにはまいりませんが。

「ユーズネットの森」の木々が大きくなり、周辺が公園として整備されるのが楽しみです。

今回訪ねた、2校とも、校長先生はじめ生徒さん十数名を2~3年前に日本へ招待しました。

この度の訪問では、招待したメンバーはじめ皆さんの、心のこもった歓迎をうけました。
でも、「もう一度日本を是非訪問したい」との話には、期待される返事をすることは出来ませんでした。

食事の違い・・気候の違い・・宗教の違い(イスラム教)・・言葉の違い・・受け入れるのは大変なんです。
期待に答えられず、申し訳ないとは思いましたが、とても難しいことなのです。



今回の、マレーシア旅行は、ユーズネットのスタッフのみでしたのに・・・
旅行中、今まで経験したことのない「孤独感」に襲われていました。

一番近い年齢のスタッフでも、20歳以上離れています。そして、たちばも違います。

でも・・・
20歳代、30歳代のスタッフが元気に楽しめば、楽しむほど自分と離れていくようで・・さみしくなってきました。

最終日のホテルで、一人で朝食を取っているとき・・・  孤独感は頂点に達していました。

年齢を重ねれば・・当然のことなのでしょうが・・・

「これから、もっと、もっと孤独になっていくのかなー」・・・

でも・・これは、やもう得ないことなのだろうなー・・・


この先は・・・ 孤独に打ち勝つ強い自分になる・・もしくは、 孤独を楽しむ自分になる・・ように、前向きに生きていこうと思います



         
      




今だから言えること・第8弾・

「〇〇君が、昨夜亡くなったんだって・・・」

「自殺だそうだよ・・家で首をつったんだって!」



これは、5年ほど前の話です。

彼は、今から28年前、昭和54年7月、当社にとって、2人目の男性スタッフとして入社しました。

整備士ということで、入社2~3年は、「当社の初期躍進」に大いに貢献してくれました。

入社当時、月間20台ほどだった販売台数は、5年後には、100台程になっていました。

この5年間の成長に、彼は大きく貢献してくれました。

ところが私が、整備の面で、頼れば頼るほど勤務態度は悪くなってきました。

昭和59年のあるとき、大型自動車の免許が取りたいとのことで、費用は負担することにしました。

免許が取れて間もなく新入社員の歓迎会がありました。

お酒が出るから、車では来ないように、と、皆に注意をしてありました。

当日、彼は車で行こうとしたので、注意したところ、「飲まないから大丈夫・・」とふてくされた態度・・

彼の「酒好き」を良く知っていた私は「飲まないなら、場がしらけるから、来るな!」ときつく言い渡しました。

プッ”とした態度で彼はどこかへ行ってしまい、歓迎会には、出てきませんでした。

翌朝・・彼が出社するなり、「やめさせてもらいます」・・

「今日中に荷物を片付けて出て行け!!」

これが、彼の第一回目の退社となりました。

彼はすぐ、トラックの運転手として働き出しました。

当社の費用で取った免許証で・・・それが私にとっては、とても悔しくて許せませんでした。


運送会社で3年ほど勤めたある日、「土、日バイトでよいので働かせてほしい」と言ってきました。

以前と違って、柔和な感じで言って来たので、バイトに来てもらうことにしました。

よく働き、感じも良く非常に助かりました。

バイトを2年ほど続けたあと、運転手を辞めてフルに勤めたいと申し入れがありました。

願ってもないと喜んで、再度きてもらうことにしました。

最初の頃はとてもよく働き、お客様の受けもよく、喜んでおりました。

3~4年経った頃又様子が変わってきました。

私の車が朝から置いてない日は必ず、友達と思われる人が数名・たむろ・するようになってきました。

私以外のスタッフは無視して、知人の車をさわっていたようです。

私が帰ってきてそれを見つけ、知人と思われる人々に出入り禁止を言い渡しました。

そのことが発端となり、第2回目の退社となりました。

その後は、以前と同じ運送会社に又、勤めるようになりました。


4~5年経って、また私のところへ来ました。

「年齢も40歳を越して、運転手は危険であるし、身体が付いていけない。」
「以前とは違って、ルートのため、家族のために、まじめに働かせてもらうから・・・」
家族のためと言われ・ほろり・としてしまいました。

今度こそは大丈夫とは、思いましたが・・・
社員としてではなく、「今度は請負の出来高払い」ということで来てもらうことにしました。
私には、請負だから、今度は大丈夫と言う思いがありました。

又数年たって、請負と言うことで、私の注意も及ばなくなって結果は・・・・
今までの、悪い状態に輪をかけた状態となってしまいました。

家族のため・・で始まった今回でしたので・・・注意をして・・半年後までの猶予を与えました。

半年たった時、もっと状況は悪くなっていました。

出て行ってもらうことに決定はしましたが、生活もあることだろうから、と、もう半年の猶予を与え出て行ってもらいました。

これが、第3回目の退社でした。



その後は、当社でしていたように、ある整備工場で出来高払いの請負で仕事をしていたようです。

冒頭の「彼が自殺した!」の話が私に伝わったのは・・・彼が当社を出て行った、一年後の夏でした・・・


葬儀に出させてもらって、奥さんと別れてしまっていたことをはじめて知りました。

あれだけ、「家庭が大切」と彼は行っていたのに・・・

家庭が大切なら・・・やはり仕事を大切にすべき・・・と・つくづく思いました。


遺影に手をあわせながら・・・
当社が彼を出さなかったら、この事態にはならなかった・・

でも・・・彼を、そのまま、おいていたら・・・
当社の方が、持たなくなってしまったのでは・・・

私の、決断は・・間違っていなかったはず・・・

・・私の、指導力がもっとあったなら・・など・・いろいろ、考えさせられました・・・


今だから言えることでした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合掌・・・



















血圧



今月、24日から、マレーシアへ行ってきます。

昨年まで、3年かけて、マレーシア、トレンガヌ州で植林によってユーズネット森を作ってきました。

ユーズネットのスタッフ18名で、その森の木たち、手伝ってくれた子供たちに逢って来ます。



一年ぶりの再会で、今から楽しみにしているところです。



健康でなければ、楽しみどころか、スタッフに迷惑がかかってしまいます。

と言ううことで、血圧を計ってみました。

上が・・・129

下が・・・ 84 でした。 この数値を見て、元気が2倍になりました。





ここに自己紹介が入ります。ここに自己紹介が入ります。ここに自己紹介が入ります。ここに自己紹介が入ります。

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